ひとの暮らしは、たとえ無意識に選んだものだったとしても、自分で選んだものでできています。「着ているもの、住んでいる家、食べているものを見ると、大体そのひとの価値観や生き方が見えてくるでしょう」と話すのは、ブランド「登美」デザイナーの松場登美さん。
「見て楽、着て楽、心が元気」という服づくり。「登美」のはじまりは、「大森町の暮らしに似合う服が作りたい」という登美さんの想いでした。
じつを言えば、私たち編集部も最初から、「登美」の魅力を理解できていたわけではありません。でも、どうしても気になったんです。「触れてみたい」「理解したい」、できることなら「まとってみたい」と。
なぜ、これほどまでに「登美」に惹かれたのでしょう? それは、服の向こうに暮らしがあるからかもしれないと、今となっては思います。
自分が着たい服を作ろう
── ブランド「登美」を作るきっかけは何だったのでしょう?
松場登美(以下、登美) 島根県大森町だなんて、辺鄙な場所で暮らしていますでしょう。山奥だから流行りものを見ることもないし、デザインも独学なんです。ですから何か売り物をつくりたかったというよりも、最初は「自分の着たいものをつくろう」と思って、暮らしに沿った、自分が欲しい服をつくっていたら自然に「登美」が生まれたという方が近いですね。もし都会に住んでいたら、つくるものは全然違ったかもしれません。
── ブランドの名前は、登美さんご自身のお名前なんですね。
登美 どうしてこの名前なんでしょう(笑)。みんながそう呼んだからかしらねぇ、理由は覚えていないけれど……。私は自然に育まれた姿の野の花が大好きなので、登美のウエアには野の花の名前を付けています。「鳳仙花」という名前のカットソーや、「薇(ぜんまい)」というブラウスがある、という具合に。
── なぜ、野の花なのでしょう?
登美 野の花って、とても美しい花だと思うんです。神様の作った、人間の手で改良されていない自然のままの姿。すごく豪華でキレイな大輪の花も好きだけれど、一番は梅の花、それに大根の花。決して派手ではないけれど、個性豊かなありのままの姿に魅力を感じます。
── 「登美」は、どんなブランドなんですか。
登美 私はいつもね、素材ありきだと思っていて。「登美」は生地をつくるところからはじまります。糸を選んで、何色に染めるか、柄はどう織るか、など。時には失敗から生まれる柄を採用することもありますよ。本来なら捨てられてしまうものを、一番に選ぶことも。
生地からつくるというメーカーは多くないようですが、私たちはカントリー調の雑貨を作っていた「ブラハウス」の時代からいつもそうしてきたので、特別なことをしている意識はありませんでしたね。
日本各地に息づく技術と想いを継承する
── キャッチフレーズは、「見て楽、着て楽、心が元気」。
登美 ええ。西洋の服は肩パッドを入れてブラジャーで胸を持ち上げて、ウエストを締めて、身体を矯正して美しく着るものが多いけれど、日本の着物っていうのは、たとえば子どもの成長にあわせて肩縫いをしたりだとか、おはしょりで身長にあわせたりだとか、まったく逆の発想をしますでしょう。
── 融通のきく服が多いかもしれません。
登美 そうそう、その融通性が日本のひとつの文化だと思うので、衣類に身体を合わせるのではなく、変化する身体にも寄り添う服をつくりたいと思っていましたね。締めつけることって、なんとなく身体によくないんじゃないかと思っていて。服をつくり始めてからしばらく経って、ある気功家の先生が群言堂の服は理想の服ですよとおっしゃってくださって。
── 理想の服ですか。
登美 とっても嬉しくって。その言葉をいただいた数年後かな、中国の古書を開いたときに、偶然「服薬(ふくやく)」という言葉を見つけました。「草根木皮小薬なり、鍼灸中薬なり」、続けて「飲食衣服は大薬なり」って書いてあったんですね。
── 「草根木皮小薬なり、鍼灸中薬なり。飲食衣服は大薬なり」……とは。
登美 草根木皮っていうのは、字の通り草木の根っこや、皮でしょう。漢方のことですね。小薬というのは「漢方薬は小さな薬だ」ということ。鍼やお灸は効果を大中小で表すならば中くらいだから「中薬」、飲食や衣服は「大薬」であるという意味の言葉です。食べることや着ることがね、大きな薬だ、と書いてあったんですね。
食べることはたしかに薬だと身を以て感じていましたが、着ることが薬だというのは、初めて触れた言葉で、すごく不思議な心持ちになりましたねぇ。でも考えてみれば、身体から精神的な面まできちんと整えることが大切だなって思いましたよ。ほら、病は気からという言葉もあるでしょう。特に女性は、着るものや身に付けるものによって、気持ちがすごく元気になることってありますから。
登美 服で元気になれるなら、できるだけ天然素材で、土に還る素材で、そういうものをつくりたいと思って、ずっとやってきました。
現在は、日本で販売されている総合衣料の96%が海外生産だと聞きます。でも私たちは日本の産地の、それぞれの素晴らしいモノづくりのひとたちと組んで、国内の素材で国内生産するということを続けてきました。
これまで手がけてきた古民家再生の事例、本社の茅葺きの家や宿の「他郷阿部家(たきょうあべけ)」(以下、阿部家)などの建物もそうですけれど、モノを残さないと技術も職人さんも残らない。経済性や効率性を優先した結果、日本のモノづくりは、どんどん衰退していきましたでしょう。
お金があれば何でも買えるかもしれないけれども、そういう時代はいつまで続くか分からない。それに今、日本国内のものを大事にして残しておかないと、すぐになくなってしまう危険性があると思います。
── 技術を残すことと、モノづくりの関係。具体的には、「登美」はどのような取り組みをされているのでしょうか。
登美 技術やモノといってもいろいろありますが、服づくりに限って言えば、たとえば広島県の備後絣(びんごかすり)。昔は200社を超えるほどあったのに、今はたった2社しか製造していないんですよ。そのうちの1社を「登美」で、もう1社をブランド「Gungendo Laboratory」で使わせていただいています。
新潟県の中越地区にもね、「亀田縞(かめだじま)」という素敵な木綿の作り手さんが以前はたくさんいらっしゃったのに、今はもう1社しか残っていない。こういった事例は、いくらでもあるんです。
新潟県の「マンガン絣」という絣はご存知? 新潟県の見附という町にある、大正末期から昭和の初期に開発された絣ですが、もうたった1社しかつくっていなくって、しかも職人さんも1人しかいらっしゃらないんですね。
「マンガン絣」は、一目惚れしてからずっとつくってもらっているんですが、最近、見附の市役所が「マンガン絣」をクールビズの制服に使用することになったようで。ほかにも採用されるデザイナーさんが出てきて、もうびっくりでしょう? 20数年前に見附に私が行って、古い資料の中からこれがおもしろいと思ったの。「そんなもの、もう誰も着る人はいないよ」という話だったのに、20数年間ずっと採用し続けていたら、また着るひとが増えてきた。
こういったことが、起こると本当にねぇ、嬉しいなぁと思いますよ。
「登美」を着ることで暮らしに目が向く心をつくる
── 「登美」を着るひとの娘世代に向けた、ブランド「根々」の柳澤さんにお会いしました。根々はデザイナーである柳澤さんの年齢にあわせてターゲット層を変えてもいいと思うとおっしゃっていました。一緒に成長していくブランドだから、もしかしたら、いつか根々は「登美」に追いつくかもしれないと。そういったことは「登美」ブランドにはありますか?
登美 私は特にね、年齢は気にしていないんです。「登美」は、たしかに私と同世代の方に向けてつくっている服だけれど、20代の方でも着てもらうことがありますねぇ。宿の阿部家にはインターン生がたくさんいらしてくださるんですが、彼女たちには私のお古を着てもらっているんですよ。みなさんすごく素敵に着こなしてくださいます。
登美 値段も安くはないですから、若い方は買いにくいかもしれないけれど、着たら似合うし、こういうものが好きとか、こういう生き方がしたいと思う人が着てくださっているんじゃないかと思うんですよ。
じつはデザインするときに、こういうものを着る人が世の中に増えたらいいなと思いながらつくることが多いですね。「登美」をはじめ群言堂の服を着ると、気持ちが変わっていくような。
── あぁ、なるほど……。「登美」そのものに惹かれるというよりも、「登美」の向こうに透けて見える、肌や心が感じる「群言堂の暮らし」の部分に、私も惹かれたのかもしれません。
登美 昔から、根のある暮らしが生み出す豊かな心や、群言堂がしていることや、してきたこと、これからするであろうこと、培ってきた価値観を広めたいという想いが、すごく強かったんです。だからお洋服を包む包装紙の裏を新聞にして、自分で文章を書いたり、毎月ポストカードに直筆のメッセージを書いて店頭で配ったりしています。
若いころは、自分の趣味を表に出すと変わり者扱いされることもありましたけれども、今は「大森町の暮らしに触れたい」とわざわざこんな辺鄙な場所に何度も足を運んで下さる方や、都会でも手にとってくださる方も増えました。
群言堂を通して、やっと自分の想いを伝えられる、メッセージを送ることができるので、本当に楽しいですよね。やりたいことがたくさんありすぎて、いつも頭がいっぱいになってしまうんですが、本当に楽しい。幸せだなぁと思いながら過ごさせてもらっています。
── 「登美」の未来をどのように描いていますか。
登美 ビジネス的にはね、お客様が「登美」を好きで着てくださっているので裏切るわけにはいかない。ただ、今の「登美」に満足しているわけではないですから、大きく変えることはないけれども、なにかまた違う一面をだしてみたいなっていう夢はあります。「え~! 登美さん、こんなのも着るの?」みたいな(笑)。今はつくれていないけれども、これからつくれる可能性のあるものっていうのには、興味はありますよね。
── ちょっとお客さんがあっと驚くような。
登美 そうそう。こういう一面もあるんですよ、みたいなことを出してみたいなぁって、思います。
(一部写真提供:石見銀山生活文化研究所)
お話をうかがったひと
松場 登美(まつば とみ)
1949年 三重県に生まれる。1981年 夫のふるさと大森町に帰郷。1989年 雑貨ブランド「ブラハウス」を立ち上げ、1998年 株式会社石見銀山生活文化研究所を設立。「群言堂」を立ち上げ、商品の企画・製造販売を手がける。2008年 築220年の武家屋敷を再生した宿「他郷阿部家」を始める。株式会社石見銀山生活文化研究所 代表取締役所長、株式会社他郷阿部家 代表取締役
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